日本映画専門チャンネルPresents × ソーゾーシー 2023.7.13 深川江戸資料館 小劇場 9.25 Mon 放送&配信! 又吉直樹がつくった自由律俳句を基にソーゾーシーの4人が創作落語&浪曲を披露する何が起こるか未知数の特別企画!

ソーゾーシーがゲストにお笑い芸人・又吉直樹(ピース)を招いて新たな「創作」に挑んだ特別公演
「×ソーゾーシー」(2023年7月13日)の模様を独占放送! 

芥川賞作家でもある又吉が「そうぞうしい」をテーマに自由律俳句(※)を創り、
4人がその自由律俳句を落語化&浪曲化して又吉本人の前で披露することに!
それぞれ又吉からの自由律俳句を受け取った4人は、頭を悩ませ、唸り、もがきながら創作に挑む...
本番当日、4人はいったいどんな高座をみせたのか。
そしてその後の又吉との答え合わせではどんな化学反応が起こったのか!

※「5・7・5」の定型に制限されること無く、自由に表現する俳句の形式

925日(月)よる730

ソーゾーシーとは?
「新作こそがスタンダード」を掲げ、
ゼロから新しい落語&浪曲を生み出す創作話芸ユニット「ソーゾーシー」。
瀧川鯉八・春風亭昇々・立川吉笑の落語家3人と浪曲師・玉川太福によって2017年から活動をはじめ、
いまやチケット完売が続く演芸界を代表する人気ユニットだ。
又吉直樹 コメント めちゃくちゃ面白かったです。自分が作った自由律俳句から、こんな落語・浪曲ができるなんて。自由律俳句をもとにした話を、10分も15分もお客さんに披露するように言われたら、僕はかなり大変だと思います。落語はそこまで詳しくはないですし、浪曲をちゃんと見たのは初めてでしたが、どの演目もみなさん切り口が違い、新しいものを見ている感じがしました。文学や音楽や演劇などの分野で、1番新しいことが今まさに作り上げられている様子を目の当たりにしたときと同じ感覚でした。すごく、刺激をいただきました。 又吉直樹 コメント めちゃくちゃ面白かったです。自分が作った自由律俳句から、こんな落語・浪曲ができるなんて。自由律俳句をもとにした話を、10分も15分もお客さんに披露するように言われたら、僕はかなり大変だと思います。落語はそこまで詳しくはないですし、浪曲をちゃんと見たのは初めてでしたが、どの演目もみなさん切り口が違い、新しいものを見ている感じがしました。文学や音楽や演劇などの分野で、1番新しいことが今まさに作り上げられている様子を目の当たりにしたときと同じ感覚でした。すごく、刺激をいただきました。
ライター・編集者の九龍ジョー コメント
ライター・編集者の九龍ジョー コメント

創作と話芸のその先へ――ソーゾーシーと又吉直樹のコラボレーションに寄せて創作と話芸のその先へ――ソーゾーシーと又吉直樹のコラボレーションに寄せて
過日、ソーゾーシー×又吉直樹という企画の一報に、あるべきものがあるべき場所に置かれるような合点と感慨を覚えた。

落語家の瀧川鯉八、春風亭昇々、立川吉笑、浪曲師の玉川太福――ソーゾーシーというグループを端的に説明する言葉として、「創作話芸ユニット」という冠が置かれる。このとき、「創作話芸」という用語はふたつに分けられる。すなわち「①創作」と「②話芸」である。順序としては、「ネタを創作」し(①)、それを「自ら演じる」(②)。

多様性、現代性に彩られた自由奔放なまでの①を、落語、浪曲という伝統を通して培われた②に落とし込む。この「熱して冷ます」とでも言うべき鍛錬のプロセスを経たソーゾーシーの高座は、四者四様であり、強い。

又吉直樹は、お笑い芸人であり、作家でもある。コントや漫才のネタをつくり(①)、自ら演じる(②)。この「①→②」のプロセスを幾度もくり返してきた。若い頃から吉本の劇場で揉まれ、綾部祐二とのコンビ・ピースでは、M-1やキングオブコントといった賞レースでも華々しい結果を残している。

その一方で、長年、担当編集者として又吉の活動を見つめてきた私は、こうも思うのだ。一見、「①→②」がストレートにつながらないケースにこそ、又吉直樹の才能の魅力が発揮されると。

作家であれば、①でよい。小説でもエッセイでも、それだけで完結する。なにせあの芥川賞も受賞しているのだ。だが、又吉は①にとどまらず、自らの生み出した活字や散文を、観客の前で披露することを好む。もちろん私は、作家による自作朗読が、文学において、国内外問わず一つの歴史を持つことは承知している。その上で、又吉の場合、いわゆる作家の朗読という枠を超えた、パフォーマーとしての表現を探っているように見えるのだ。いまここで「パフォーマー」という言葉を使ったが、それは、こうした場合に、又吉が②で向かい合ってきたお笑いの空間よりも広く射程をとっていると思われるからだ。

そして、おそらくだが、従来のお笑いからハミ出たこの志向性に導かれ、又吉は韻文の世界へ足を踏み入れた。その象徴の一つといってよいのが、自由律俳句だ。

私が思うに、又吉の自由律俳句には、②の要素が含まれている。句作のその先、あるいは、句作自体が②から遡行されたもののように感じられることもある。これは、日本の韻文が連歌や歌合などの集団制作の〈場〉から発展したことを思えば、むしろ古典的な営みとも言えるかもしれない。

ただ、又吉が従来②を行っているお笑いの観客の前では、作者である又吉自身、あるいは共演者たちがその解釈を考え、「絵」を浮かびあがらせることで笑いを生み出す、という構造になりがちだ。又吉はそこにあきたらず、彼の小説やエッセイがそうであるように、「①→②」の先に、③としての「観客の想像力」にアプローチする術を探っているように見える。

であればこその、ソーゾーシーだ。落語や浪曲は、基本的に、言葉を頼りに観客が自由に想像力の翼を広げ、その場でイメージを立ち上げる芸能である。観客の想像力(③)は、常に欠かせない要素としてある。

又吉の創造した自由律俳句が、ソーゾーシーの手によって新作に生まれ変わり、観客へと投げかけられる。この「①→②→③」のプロセスを経て、どのような化学反応が起こるのか。私もまた、観客の一人として楽しみにしていたことは言うまでもない。

そして、先回りして言うならば、ミラクルは起こった。

あとはテレビ番組という枠を通してどう映るか、だけだろう。もし、視聴者であるあなたの想像力を刺激できたなら、この先の可能性は計り知れないものがある。

九龍ジョー(ライター、編集者)

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放送

「×ソーゾーシー」

(2023年・深川江戸資料館小劇場)
出演:
瀧川鯉八 春風亭昇々 玉川太福 立川吉笑/玉川みね子(曲師)
又吉直樹(ピース)
[ナレーション] 藤谷理子(ヨーロッパ企画)

演芸界を代表する人気ユニットソーゾーシーがゲストにお笑い芸人・又吉直樹(ピース)を招いて新たな「創作」に挑んだ特別公演「×ソーゾーシー」(2023年7月13日)の模様を独占放送!

<演目>
春風亭昇々 「一族」
玉川太福  「ベランダの母」
瀧川鯉八  「いちについて」
立川吉笑  「霊か楼か」

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「×ソーゾーシー」©日本映画専門チャンネル

創作と話芸のその先へ――ソーゾーシーと又吉直樹のコラボレーションに寄せて創作と話芸のその先へ――ソーゾーシーと又吉直樹のコラボレーションに寄せて
過日、ソーゾーシー×又吉直樹という企画の一報に、あるべきものがあるべき場所に置かれるような合点と感慨を覚えた。

落語家の瀧川鯉八、春風亭昇々、立川吉笑、浪曲師の玉川太福――ソーゾーシーというグループを端的に説明する言葉として、「創作話芸ユニット」という冠が置かれる。このとき、「創作話芸」という用語はふたつに分けられる。すなわち「①創作」と「②話芸」である。順序としては、「ネタを創作」し(①)、それを「自ら演じる」(②)。

多様性、現代性に彩られた自由奔放なまでの①を、落語、浪曲という伝統を通して培われた②に落とし込む。この「熱して冷ます」とでも言うべき鍛錬のプロセスを経たソーゾーシーの高座は、四者四様であり、強い。

又吉直樹は、お笑い芸人であり、作家でもある。コントや漫才のネタをつくり(①)、自ら演じる(②)。この「①→②」のプロセスを幾度もくり返してきた。若い頃から吉本の劇場で揉まれ、綾部祐二とのコンビ・ピースでは、M-1やキングオブコントといった賞レースでも華々しい結果を残している。

その一方で、長年、担当編集者として又吉の活動を見つめてきた私は、こうも思うのだ。一見、「①→②」がストレートにつながらないケースにこそ、又吉直樹の才能の魅力が発揮されると。

作家であれば、①でよい。小説でもエッセイでも、それだけで完結する。なにせあの芥川賞も受賞しているのだ。だが、又吉は①にとどまらず、自らの生み出した活字や散文を、観客の前で披露することを好む。もちろん私は、作家による自作朗読が、文学において、国内外問わず一つの歴史を持つことは承知している。その上で、又吉の場合、いわゆる作家の朗読という枠を超えた、パフォーマーとしての表現を探っているように見えるのだ。いまここで「パフォーマー」という言葉を使ったが、それは、こうした場合に、又吉が②で向かい合ってきたお笑いの空間よりも広く射程をとっていると思われるからだ。

そして、おそらくだが、従来のお笑いからハミ出たこの志向性に導かれ、又吉は韻文の世界へ足を踏み入れた。その象徴の一つといってよいのが、自由律俳句だ。

私が思うに、又吉の自由律俳句には、②の要素が含まれている。句作のその先、あるいは、句作自体が②から遡行されたもののように感じられることもある。これは、日本の韻文が連歌や歌合などの集団制作の〈場〉から発展したことを思えば、むしろ古典的な営みとも言えるかもしれない。

ただ、又吉が従来②を行っているお笑いの観客の前では、作者である又吉自身、あるいは共演者たちがその解釈を考え、「絵」を浮かびあがらせることで笑いを生み出す、という構造になりがちだ。又吉はそこにあきたらず、彼の小説やエッセイがそうであるように、「①→②」の先に、③としての「観客の想像力」にアプローチする術を探っているように見える。

であればこその、ソーゾーシーだ。落語や浪曲は、基本的に、言葉を頼りに観客が自由に想像力の翼を広げ、その場でイメージを立ち上げる芸能である。観客の想像力(③)は、常に欠かせない要素としてある。

又吉の創造した自由律俳句が、ソーゾーシーの手によって新作に生まれ変わり、観客へと投げかけられる。この「①→②→③」のプロセスを経て、どのような化学反応が起こるのか。私もまた、観客の一人として楽しみにしていたことは言うまでもない。

そして、先回りして言うならば、ミラクルは起こった。

あとはテレビ番組という枠を通してどう映るか、だけだろう。もし、視聴者であるあなたの想像力を刺激できたなら、この先の可能性は計り知れないものがある。

九龍ジョー(ライター、編集者)